不定期で行われる、鑑賞会、認定式、懇親パーティーの模様をレポートします。
10月29日(水)、京都島原「輪違屋」さんにて太夫鑑賞をして参りました。
輪違屋(わちがいや)とは、現在も営業されている京都の花街、島原の置屋兼お茶屋です。 創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まります。 置屋として創業当時の名は「養花楼」。お茶屋兼業は明治5年(1872年)より。現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となりました。 かつては芸妓等も抱えておりましたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれており、表には「観覧謝絶」の札があります。(いわゆる「一見さんおことわり」の店です) 建物は昭和59年(1984年)に京都市の指定・登録文化財となりました。 太夫道中に使われる傘を襖に貼り込んだ「傘の間」、本物の紅葉を使って型取りしたうえに彩色した壁が使われた「紅葉の間」が特徴的で、もともとは当主の部屋でした。 傘の間の傘には「高」(正確には髙島屋のマークの「高」の字体と同じ)の文字が入っているがこれは当主の姓が「高橋」だったということに由来します。 1階には近藤勇書の屏風が、2階には桂小五郎書の掛軸があります。 浅田次郎小説およびテレビドラマの『輪違屋糸里』で有名ですが、糸里が輪違屋にいたとの記録は輪違屋側にはないとの事です。 「維新の名花」といわれた「桜木太夫」を抱えていたのはこちらの様です。(糸里が「桜木太夫」となる小説・ドラマでのエピソードはフィクション)。
遊女、芸妓における太夫の称号は江戸時代初期に誕生し、当時は女歌舞伎が盛んで芸達者の役者が「太夫」と呼ばれたのが始まりだといわれております。 やがて遊廓が整えられ遊女の階級制が確立、美貌と教養を兼ね備えた最高位の遊女に与えられ、京の島原、江戸の吉原、大坂の新町、長崎の丸山に配置されるようになりました。 主に公家、大名、旗本ら上流階級を相手にし(丸山では中国人、オランダ人も)、吉野太夫・夕霧太夫・高尾太夫ら(寛永三名妓)が輩出しました。 しかし、太夫を相手にするには高額の費用が必要とされ、江戸では宝暦年間に吉原で太夫が消滅し代わって「散茶(さんちゃ)」と呼ばれる遊女が「花魁」(おいらん)と呼ばれるようになりそちらが主流になります。 一方京・大坂には「太夫」の名は残り、別名「こったい」と呼ばれました。
秋晴れの日、京都は島原の輪違屋さんへ総勢28名で出かけました。 輪違屋と言えば、元禄時代より320年以上も営業を続けている島原唯一の置屋兼、お茶屋さんです。 そこで迎えて下さったのは如月太夫。艶やかで豪華な衣装、たおやかな姿態に圧倒されました。 着物は紐1本で着つけられ、帯は心むすびと言われる形だそうで、すべてが御所の宮遊びなのですね。 太夫からのお誘い状が貼られたお座敷でお茶のお点前、歌舞伎の阿古屋さながらの琴、三味線、胡弓の演奏、そして舞踊。 うっとりとした後は、二階の襖に道中傘を貼りこんだ「傘の間」、壁に本物の紅葉を塗りこんでかたどった「紅葉の間」へと上がります。ここは圧巻でした! この部屋での酒宴の席には一体どんな人が着くのでしょう?この末席にでも連なって一献傾けて・・なんて妄想してしまいそうです。 最後は太夫さんとご当主さんとのお色気たっぷりで軽妙なやりとりにすっかり楽しくなって帰路につきました。これからもずっと続けていって欲しいですね!太夫さん頑張れ!!