日本文化普及協会の行っている、文化交流・文化活動についてご報告いたします。
大阪梅花高校内にて学生さんを対象に『十二単の着装及び小袖の変遷』の講演と着物ショーを執り行いました。 現代のきものの源流は「小袖」と呼ばれるものです。小袖は平安時代の十二単の下着、及び庶民の衣服でした。その小袖が発展して現代の着物となる過程を時代ごとにファッションショーでお見せし、同時に今に伝わる十二単のお服上げを(着装)披露致しました。
“欠席した子の代理で短裳を体験させていただきました。はじめ、着物のモデルに応募しようかと迷っていましたが、着る機会ができたので嬉しい気持ちでした。短裳は比較的身分が少し低い人の着物なのかな? と思いましたが、それがかえって目立ちました。 頭のかぶりものがとても印象的でした。一枚の大きなバンダナが着付師さんによって一瞬にして綺麗な帽子になりました。私の中で短裳は、元気で明るいお団子屋さんの女の子というイメージが浮かび上がりました。私は本番直前になって緊張するタイプなので、いざ着物ショーでステージの上に立って歩くと、姿勢を保つのに精一杯でした。 なので、着物の説明をよく聞き取ることができませんでした。でも自分の出番が終わった後で、着付けの先生が「ポージング上手だったよ」と褒めて下さいました。 このような滅多にない貴重な経験ができて本当に良かったです。見るのも、着るのも楽しむことができました。 代理に立候補した私はラッキーだったと思います。他の着物も着てみたいと思いましたが、短裳に愛着がわきました。ありがとうございました。”
“今回、モデルを経験させていただいてすごく楽しかったです。出雲阿国さんの衣装なんて、たぶんこの先着る機会はないと思います。 はじめは、出雲阿国さんの役は嫌でしたが、やってみるとこの役に選ばれてよかったなと思いました。 また、間近でたくさんのいろんな時代、身分の衣装を見られて、帯の巻き方の美しさ、綺麗な着物の柄、髪の結い方などを身近に感じられたことが、すごく貴重な経験となりました。 このような機会をいただき、ありがとうございました。”
江戸初期の頃、慶長小袖、別名地なし小袖と呼ばれる地色がが見えない程、文様が刺繍や摺箔でうめ尽くされた物が流行しましたが、これらは一時的なもので当時の小袖は町人文化と共に発達しました。 この頃の小袖の形態は身巾と袖巾がほぼ同寸になり、又、帯巾が広くなるにつけ袖つけが短くなり、振りというものが生まれました。 袖丈の長短に関わらず、振りのある袖を〝振り袖〟と呼び、それに対して従来の形式、袖つけが身頃いっぱいに縫い留めてある袖の事を〝留袖〟と呼びました。 文様としては、ひな形と呼ばれる小袖のファッションブックのようなものが表われました。 江戸時代を代表する小袖模様としては慶長模様・寛文模様・元禄模様等があります。 モデルの帯結びは吉弥結びと呼ばれています。 帯の発達と共にその材質・色彩・文様等に気を配るようになり、結び方にも趣向を凝らすようになりました。この結び方は、歌舞伎の女形役者の上村吉弥の扮装から流行した帯結びで、帯巾3寸(約11.5㎝)帯の端を唐犬の耳が垂れるような形に片輪奈結びにして垂らしたものです。
◎被衣
中世の貴族・武家の間で「きぬかつぎ」と呼んでいましたが、近世になると貴族・武家階級だけでなく一般女性の間にも流行しました。
承応期一六五三年― 禁止令(刺客が用いたため)
安永期一七八0年― 庶民の間でも禁止
“貴重な体験をさせていただき、とてもうれしかったです。とても楽しかったです。 着付けをしてくださった方々は優しくていい人で、好きでした。髪のセットアップまでありがとうございました。”
右:紫の裾引きに路考結び
左:小袖に吉弥結
享保年間(一七一六年)きもの文化の中心は上方から江戸へ移り小袖と帯は庶民の代表的な衣服として花開きました。 寛政の頃(一七八七年)になると幾度となく厳しい質素倹約令や、奢侈禁止令がとられその結果、江戸褄模様・裏裾模様といった表には派手さを押さえた目立たないおしゃれや又、格子・縞・無地・小紋等渋い好みのおしゃれを工夫し裏地や内着に贅をつくすそこ底いたり至〟が通人達の間でもてはやされ、江戸時代独特の「粋の美意識」が生まれました。 又、この頃になると、帯巾も30㎝以上のものも使われ、特に庶民の間で昼夜帯、もしくは腹合わせ帯といった表地を黒繻子とし、内側に異なった地色や文様のある帯が好まれました。 モデルの帯結びは、歌舞伎役者瀬川路考にちなんだ路考結びです。この帯結びは、現在のお太鼓結びの起源ともいわれ、帯の両端から出る形の変化で様々な名称が付けられています。 文化十年(一八一三年)帯結びの本として「都風俗けわい化粧伝」が出版されました。又、帯地として金襴(きんらん)・ビロード・緞子(どんす)・繻子(しゅす)・綸子(りんず)・縮緬(ちりめん)等が使用されました。
今回、路考の格好をしたのは初めてでした。二人がかりで二十分程かけ、しかも下着から着替えたので、思っていたよりも本格的でした。何枚も着物を着て、ずらして、綺麗に見えるようにするため、重ねてたくさん着たので、分厚くとても重みが感じられました。色は紫で下の方が白っぽい感じで、シンプルかつ上品な組合せでした。柄はひらがなで何か書かれていてとても印象的でした。後から、自分よりもはるかに大きく長い帯を持ってこられた時は驚きました。それを丁寧に巻いて下さって、後ろは綺麗に変わった結び方をしてくれました。柄は、鬼や人の顔がついていたのでこれもまた印象的で驚きました。足よりも長い着物は動くたびに裾を持ち上げなければならなかったので、少し面倒でした。それに、かなり着て、帯も巻かれているので、腰を曲げること、しゃがむことができず、大変でした。頭にはカツラをかぶり、思っていたよりも重くて、落ちるかどうか心配でたまりませんでした。自分の髪をすべて上げたので、はずかしかったです。足もとには支えが二つしかない下駄を履いたので、バランスがとれにくく、何度も転びそうになったくらいです。でも、そのおかげで、舞台では早歩きになることがなく、ゆっくり歩くことができました。舞台の上ではみんなの視線が恥ずかしく、ハプニングもありましたが、着付けのみなさんがとても親切でしたし、楽しく着ることができました。また、着物について、全く知らなかったので、いつ頃着られていたものか、時代によってどのように変わっていったのかなどとても勉強になりました。路考という珍しい着物を着るような、一生に一度もないような経験ができて、本当に良かったです。
平安時代以来、公家の女性が着用してきた袴は鎌倉時代以降衰退し、宮中以外で袴をはく姿は見られなくなりました。この女子の袴姿が復活するのは明治になってからです。西欧文明の導入と共に椅子に座る生活が公式になってくると女子も外を歩く事が容易で裾さばきを気にしない服装が必要となってきます。 そこで宮中では「袿袴道中着姿」が導入されました。明治十三年(一八八〇年)の事です。 この当時のキャリアウーマン達も必然的に袴をはくようになりましたが当初は男性の袴を着用していました。これでは少々見た目が武骨ですので女袴が生まれました。 一八八五年、華族女学院(学習院女子部の前身)の下田歌子が今日の女袴を考案したと言われています。その基本となったのが、袿袴姿の切袴だそうです。
初めて女袴を着せてもらって、本当に良い経験になりました。ちゃんと着られるか不安だったけれど、女の人が着せてくれて良かったです。人前に出るのはとても緊張したけれど、うまく歩けたかなと思うので、良かったです。ありがとうございました。
はじめて袴を着ました。着物の下にもう一枚着る感じで、着るのも時間がかかるんだなと思いました。下にブーツを履きました。袴の下にブーツを履くのは少し新鮮な感じがしました。髪の毛もやってもらってすごく嬉しかったです。袴姿の自分を見た時、タイムスリップしたような気がしました。舞台で歩く時は少し緊張しましたが、楽しかったです! 口紅みたいなのもつけてもらえて嬉しかったです!袴を着せてくれた方にも、とても親切に接していただけて、とても嬉しかったです。自分も着付けをできるようになりたいと思いました。大人になったら習ってみたいと思います。海外に行った時とかにコミュニケーションをとるのに役立つと思うからです。とっても楽しかったです! ありがとうございました。
〈留袖〉 ミセスの正式礼装のきものです。留袖の語源は江戸時代、結婚後、又は男女共元服すると振袖の振りを切って身頃に振りを縫い留めた、いわゆる「袖留」のきものを着用したところから起こった名称といわれています。 黒留袖と色留袖がありますが、黒は婚家に一生とどまる意志を込めているといわれており、特に結婚式の仲人・新朗・新婦の母親は通常黒留袖を着用します。 又、別名江戸褄ともいわれています。これらは模様付けからつけられた名称です。帯は袋帯。結び方は二重太鼓。二重太鼓はお太鼓結びの変形で、太鼓の部分が二重になっているのでこの名がつきました。
〈振袖〉 ミスの正式礼装のきものです。元来は、留袖(袖留)に対して振りのある袖の事でしたが、現代では袖丈の長いきものを振袖と呼んでいます。 正式には本振袖と呼ばれる五つ紋付で裾は共布の引き返しになっており、下重ねを重ねて袖丈も約114㎝必要ですが、昨今では、大振袖・中振袖等の略礼装で代用される事が多くなりました。