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文化交流・活動履歴

日本文化普及協会の行っている、文化交流・文化活動についてご報告いたします。

2013年11月20日(月)

梅花高校:十二単の着装及び小袖の変遷

大阪梅花高校内にて学生さんを対象に『十二単の着装及び小袖の変遷』の講演と着物ショーを執り行いました。 現代のきものの源流は「小袖」と呼ばれるものです。小袖は平安時代の十二単の下着、及び庶民の衣服でした。その小袖が発展して現代の着物となる過程を時代ごとにファッションショーでお見せし、同時に今に伝わる十二単のお服上げを(着装)披露致しました。

十二単着装

小袖の変遷

― 鎌倉後期 ~ 室町前期 ―

〈小袖に短裳袴〉 短裳袴は宮内の女官が衣生活の簡略化にともない袴と裳が一つになった裳袴をつけるようになったところから、小袖にも用いられるようになりました。 小袖の文様としては公家や武家の広袖形式の衣服には時として華やかな文様をつける事がありましたが、主に武家・庶民の用いる小袖には文様を表わすことはあまりなかったようです。 又、この時代の帯は主に小袖を身につけるという実用面に用いられる事が多く、帯巾も3~4㎝と細いものでした。 このように、小袖は元来一般庶民が着ていた粗末な一枚着で素肌に一枚・寒い時期でもせいぜい二~三枚をかさね襲ていたようです。

― 室町末期 ~ 桃山・江戸初期 ―

〈小袖に名護屋帯〉 室町末期より小袖にも華麗に作られたものが表われ始め、桃山期には、摺箔・刺繍・唐織物・緞子等、贅沢な絹織物も出現し、小袖が中心的な服飾として成立しました。文様としては、肩裾模様・片身替わり・段替わり等、大胆な文様構成が流行したようです。 当時の小袖は、身巾が広く袖巾が狭い。そして衿が長い事が特徴です。又、古代以来の貴族の服装様式にみられるおおらかで優雅な雰囲気にならったものといえます。当時は正座の習慣がなく、立膝をして座る事がほとんどであった為、裾がはだけるのを防ぐ目的からもこのような形態がが必要であり、又当時の帯は、実用的なものから装飾的なものに変わり、帯巾も10㎝前後と思われる贅沢な生地のくけ帯が使われています。又、太い丸組みの紐の先端に房をつけた長さ3.8m(1丈)程の名護屋帯と呼ばれるものが流行しました。 名護屋帯の名称は肥前名護屋で唐糸で組んだのでこの名称があります。

― 江戸初期 ~ 江戸中期 ―

〈振袖の小袖に吉弥結び〉

江戸初期の頃、慶長小袖、別名地なし小袖と呼ばれる地色がが見えない程、文様が刺繍や摺箔でうめ尽くされた物が流行しましたが、これらは一時的なもので当時の小袖は町人文化と共に発達しました。  この頃の小袖の形態は身巾と袖巾がほぼ同寸になり、又、帯巾が広くなるにつけ袖つけが短くなり、振りというものが生まれました。  袖丈の長短に関わらず、振りのある袖を〝振り袖〟と呼び、それに対して従来の形式、袖つけが身頃いっぱいに縫い留めてある袖の事を〝留袖〟と呼びました。 文様としては、ひな形と呼ばれる小袖のファッションブックのようなものが表われました。  江戸時代を代表する小袖模様としては慶長模様・寛文模様・元禄模様等があります。  モデルの帯結びは吉弥結びと呼ばれています。  帯の発達と共にその材質・色彩・文様等に気を配るようになり、結び方にも趣向を凝らすようになりました。この結び方は、歌舞伎の女形役者の上村吉弥の扮装から流行した帯結びで、帯巾3寸(約11.5㎝)帯の端を唐犬の耳が垂れるような形に片輪奈結びにして垂らしたものです。

◎被衣

中世の貴族・武家の間で「きぬかつぎ」と呼んでいましたが、近世になると貴族・武家階級だけでなく一般女性の間にも流行しました。

承応期一六五三年― 禁止令(刺客が用いたため)
安永期一七八0年― 庶民の間でも禁止

― 江戸中期 ~ 江戸後期 ―

右:振袖の小袖に吉弥結
左:縞の小袖に昼夜帯 (路考結び)
〈縞の小袖に昼夜帯 (路考結び)〉

享保年間(一七一六年)きもの文化の中心は上方から江戸へ移り小袖と帯は庶民の代表的な衣服として花開きました。  寛政の頃(一七八七年)になると幾度となく厳しい質素倹約令や、奢侈禁止令がとられその結果、江戸褄模様・裏裾模様といった表には派手さを押さえた目立たないおしゃれや又、格子・縞・無地・小紋等渋い好みのおしゃれを工夫し裏地や内着に贅をつくすそこ底いたり至〟が通人達の間でもてはやされ、江戸時代独特の「粋の美意識」が生まれました。  又、この頃になると、帯巾も30㎝以上のものも使われ、特に庶民の間で昼夜帯、もしくは腹合わせ帯といった表地を黒繻子とし、内側に異なった地色や文様のある帯が好まれました。 モデルの帯結びは、歌舞伎役者瀬川路考にちなんだ路考結びです。この帯結びは、現在のお太鼓結びの起源ともいわれ、帯の両端から出る形の変化で様々な名称が付けられています。  文化十年(一八一三年)帯結びの本として「都風俗けわい化粧伝」が出版されました。又、帯地としてきんらん金襴・ビロード・どんす緞子・しゅす繻子・りんず綸子・ちりめん縮緬等が使用されました。

― 明治時代 ―

〈小袖に袴〉

平安時代以来、公家の女性が着用してきた袴は鎌倉時代以降衰退し、宮中以外で袴をはく姿は見られなくなりました。この女子の袴姿が復活するのは明治になってからです。西欧文明の導入と共に椅子に座る生活が公式になってくると女子も外を歩く事が容易で裾さばきを気にしない服装が必要となってきます。  そこで宮中では「けい袿こ袴どうちゅう道中ぎ着姿」が導入されました。明治十三年(一八八〇年)の事です。  この当時のキャリアウーマン達も必然的に袴をはくようになりましたが当初は男性の袴を着用していました。これでは少々見た目が武骨ですので女袴が生まれました。 一八八五年、華族女学院(学習院女子部の前身)の下田歌子が今日の女袴を考案したと言われています。その基本となったのが、けい袿こ袴姿の切袴だそうです。

― 現代のきもの(留袖) ―

右:振袖 左:留袖

〈留袖〉 ミセスの正式礼装のきものです。留袖の語源は江戸時代、結婚後、又は男女共元服すると振袖の振りを切って身頃に振りを縫い留めた、いわゆる「袖留」のきものを着用したところから起こった名称といわれています。 黒留袖と色留袖がありますが、黒は婚家に一生とどまる意志を込めているといわれており、特に結婚式の仲人・新朗・新婦の母親は通常黒留袖を着用します。 又、別名江戸褄ともいわれています。これらは模様付けからつけられた名称です。帯は袋帯。結び方は二重太鼓。二重太鼓はお太鼓結びの変形で、太鼓の部分が二重になっているのでこの名がつきました。

〈振袖〉 ミスの正式礼装のきものです。元来は、留袖(袖留)に対して振りのある袖の事でしたが、現代では袖丈の長いきものを振袖と呼んでいます。 正式には本振袖と呼ばれる五つ紋付で裾は共布の引き返しになっており、下重ねを重ねて袖丈も約114㎝必要ですが、昨今では、大振袖・中振袖等の略礼装で代用される事が多くなりました。

阿倍野教室 栗林希代子先生

 梅花高校にて、服装史の移り変りとしての着物ショーが行われました。十二単をメインに時代を追っての衣装紹介です。モデルは皆さん生徒さんでにぎやかな楽屋裏でした。見るのも、着るのも、そう機会があるものではなく楽しんでおられました。  私自身、スタッフとして参加させていただき、楽しみながら勉強させていただきました。